世界はデコとボコでできている

メッシについてのありがたい話

昨年末、メッシがついにW杯優勝を果たしたということで世間が賑わった。

自分は日本戦と決勝しか追いかけていなかったが、「サッカー選手といえばメッシ」の時代にサッカー少年をやっていたので感慨深いものがあった。おめでとうメッシ。

「サッカー少年だった」と言っても、W杯やたまにある国際親善試合のTV放映くらいでしかサッカーを見ない不真面目な小僧だったので、「メッシはなんかすごいらしい」以上の理解は持っていない。それでもやっぱり「メッシはすごい」と思っているので、スター選手とはそういうものなんだろう。

ところで、一般にスポーツ少年は、ときおり指導者を名乗る謎の中年男性から謎のありがたい説教をいただくことがある。それはある時には友達の父親だったりするし、ある時には〇〇協会の人だったりするし、ある時には強いチームのちゃんとした監督だったりする。

例外なく自分もそうだった。どの説教も「心に残っている」とは言い難いのだけれど、ひとつだけ思い出せる話がある。誰が言っていたのかはよく覚えていないのだけれど、メッシの話だった。

メッシがインタビューで「すごい選手に共通する特徴はなんですか?」と聞かれてなんて答えたか知ってますか?それはね、「真面目に練習している人はあまりいませんね。すごい選手は遊びのつもりでサッカーをやっています。遊びのつもりでやらないといけないんだと思います。」です。みなさんも遊ぶようにサッカーをとことん楽しみましょう。

残念ながらそのようなインタビューの記録は自分では見つけられなかったので、この話の真偽はよくわからない。しかし、一定の説得力がある話ではある。「努力は夢中に勝てない」という人は多い。メッシの同僚イニエスタも、メッシのことを「プロとしてサッカーをするというより、ゲームで遊ぶように楽しんでいる」と表現したらしい。

愛すべき私の同僚

こんなことを思い出したのは、メッシが優勝で締めくくった2022年が、自分にとっては「やっぱ遊びじゃなきゃだよなあ」と思わせる年だったからだ。


バルセロナ時代、イニエスタにメッシという素晴らしい同僚がいたように、Boctozでは私にも素晴らしい同僚いのうえこうすけがいる。

彼とはBoctozに限らず様々なことを一緒にやってきたので、ここ数年で一緒に過ごした時間はまあまあ長い。特に2022年は彼と2人だけで、あるいはもう1人加えてやるプロジェクトが大部分を占めていた。


悪い部分だけを切り取ると、彼は俗に言う「ポンコツ」の部類に入る。

締め切りは守れない、同じ失敗を繰り返す、10を聞いてようやく3~4を掴む。特に、ルールとか概念といった、なにか形式的あるいは抽象的な事柄を彼に説明するときの労力は絶大で、「世の中には1を聞いて10を知ることができる賢い人がいるから、入出力の量をちょうどいい感じにするために神様が彼を用意してくれたのだ」と思わせるほどだ。

一緒に活動する中、彼のそんなところにイライラさせられていた。頼れる人が彼くらいしかいないのに、彼が頼りにならない。自分がやらなきゃいけない。自分がやるのはまあ別にいいんだけど、親友でもある彼との間に「リードする・される」という関係性が固定されているのが気に食わなかった。自分にとっては「こんなんやればできるだろ」というところで彼が躓いていたのも大きい。そのときの気持ちをそのまま表現すれば、「もっとちゃんとやってほしかった」。

Boctozを始めたときもそうだった。彼の草稿はひとことでいえば「ぎこちない」ものだった。私の3倍も時間をかけて出したクオリティとは思えない。しかも文章の「良くない点」も、おおかた初歩的なミスか、書く前の設計時点での失敗だった。

彼と彼の文章が苦しそうだったので私がまるごと添削した。彼のポスト「賢い人の学び方は洗練されている」や「「頭ではわかってるけど身体がね...」という悩みは、案外もののはずみで解決する」などは、そんなふうに、実はほとんど私の設計図でできている。それ自体あまりいいことだと思わなかったし、「自分の文章くらい自分で書いてくれよ」と思った。

というわけで、自分の中でいのうえこうすけは「仕方のないやつ」に成り下がっていった。それ自体、自分にとっては哀しいことだったけれど、それも仕方がなかった。そう思っていた。

突然のホームラン

しかし10月末、突然それは起こった。彼が「どんなに忌々しい敵でも、友達になれる」の草稿を書いてきたのだ。

他の人がどう思うのかはわからない。ただ私にとってその文章は明らかに、彼の今までのどのアウトプットよりも光り輝いていた。

普段の彼からは想像できない器用なコミカルさ。登場人物の表情まで想像できる文章。おそらく世界で彼しか拾えないだろうシーン選び。なにしろ読める。読めるのだ。もっと読みたいと思えたのだ。どんなに褒め言葉を積んでも足りない、見事なホームランだった。

長く付き合ってきたからこそわかった。彼の中で革命のような出来事が起こっているのだと。

草稿に感嘆のコメントをつけ、すぐさま話を聞きに行った。

comment

彼は、「自信あるから褒められるとなんかニヤニヤしちゃうけど一応謙虚な感じ出しときます」みたいな顔をしてこう言った。

「いやー、自分の書きたいものがわかったんだよねえ。おれ、人が書きたいんだわ。」

それは「しっくりきた」人の言葉だった。


もともといろんな伏線はあった。彼はかなり小説を読むし、「良きパートナーになりたければ、ありのままの自分を見せる」でも「おっ」と思わせる表現があった。むかし彼が大学祭のひとり探検レポを話してくれたときは「よくもまあそんな初めて出会った人たちのこと楽しそうに語れるね」と思わせる話しぶりだった。だから、いつ「読ませる文章」を書いてきてもおかしくはなかった。

しかしいざ直面すると、それは予想を遥かに超えた打球感だった。よくわかんないけどオレも嬉しかった。いのうえこうすけは今始まったんだと思った。


そのあと彼は次々に名作を生み出していった。「相談上手は、盛り上げ上手」に「人生の価値を理解する瞬間を見たことがある」、まだ世に出てないものもいっぱいある。まさに「我が意を得たり」な顔で人を書いている。

正直言って悔しいくらいだ。「読者層を狙って書いてみよう」とBoctozに公開した自分の文章がバカバカしい。今の自分では彼ほど読ませる文章は書けない。彼みたいに書きたい。

そしてふと思ったのだ。「いのうえこうすけがポンコツなのは自分のせいだった」と。彼が苦手なことを、私が「ちゃんとやらせよう」としていたからだったと。以前の仕事ぶりと比べれば、今の彼はまるで遊ぶようじゃないか。

凸と凹で

実はメッシは「試合中走らない選手」としても有名だ。他の選手が一生懸命ボールを追いかける中、彼はほとんど歩いて試合を過ごしている。ゴールのにおいがする瞬間をひたすら待って、いざというときに誰よりも速く駆け抜けるのがメッシのプレイスタイルだ。

普通の選手がこのプレイスタイルをしていると十中八九しかられる。サッカーでは試合中にボールに触れる時間がかなり短く、相手チームがボールを持っているときは走ってプレッシャーをかけなければいけないからだ。走らないメッシを悪い意味で「遊んでいるみたい」と揶揄するときもある。

しかし、メッシのチームはメッシを許容する。それはもちろんメッシが点を決めるからだけど、小柄なメッシが普通に競っていても勝てないからでもある。メッシは「ふつう」のプレイスタイルが苦手なのだ。

W杯のアルゼンチンは、明らかにメッシを軸に戦略を立てていた。メッシの凸(デコ)がうまくハマるようにチームで凹(ボコ)を用意していた。それがうまく機能して、ついには優勝した。


念の為に言っておくと、いのうえこうすけをメッシだと言うつもりはない。それは買いかぶり過ぎ。すぐに調子に乗って「おれ文章うめっしww」とか言い出す、そのレベルの人間だ。


しかし、程度の大小はあれど、大体そういうことだと思うのだ。誰にも遊ぶように楽しめることがあって、それをやっていると凸ができる。その凸がうまくハマる凹がある。その凸に、同僚が、チームが、社会が助けられる。

それでいいじゃん。できないことあってもいいじゃん。助ければいいじゃん。助けてもらえばいいじゃん。遊ぶように人生楽しんで、できないことは助けてもらって、できることで助ければいいじゃん。それでいいじゃん。

2023年からは、そういう気持ちを前面に出して生きていこうと思っている。

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