「やりたいことが見つからなくて困っています」への今の私の回答

先日、就活を控えた大学の後輩に標題の件について尋ねられた。個人的に好きでついつい考えてしまうテーマなので、現段階の自分の考えを整理するがてら回答をここにまとめておく。

重要なことは大きく分けて2つある。

「ずっとやりたいこと」はありえない

まず、この手の相談をする人がよく思い込んでいるのは「これから一生やりたいと思えることを見つけなくてはならない」ということだ。

少し冷静になるとわかるが、これはありえない。細胞レベルでも毎日少しずつ自分は変わっていくように、自分のやりたいこも少しずつ変わっていく。なぜなら、今日なにかのはずみで得られた刺激Aを受け取った自分と昨日までの自分では少し「角度」が変わっているから。N年後にはもっと変わっている。

だから「やりたいことがずっと一貫する」という考えはまず捨てよう。苦しんでいる原因の半分くらいはここにある。

「やりたいこと」は、まず「マイブーム」のことだと捉えてみたほうがいい。「少なくとも3日はハマれる」くらいの刹那的なものでいいから。

この手の話をするときによく紹介する世界は「夢組」と「叶え組」でできているという文章がある。この文章を読んでもらうと大抵「はじめちゃんは夢組だね笑」なんて言われてしまうのだが、そんな私の「やりたいこと」は実にマイブーム的だ。

例えば、去年の今頃は生物学の本を読んでいたし、半年前は小商いについて徹底的に調べていた。3ヶ月前はショウペンハウエルにハマっていたし、最近はWebデザインを研究していた。10日だけ建物のデッサンに取り組んだこともあれば、3日だけ懸垂の練習をしていたこともある。

この程度のことなら誰にでもあるのではないか?もし「夢組」の私(?)と「自分は叶え組だから…」なんてすぐ言っちゃう人との違いがあるとすれば、「マイブームに自覚的かどうか」くらいのことだと思う。これは気質というよりは習慣の違いな気がしている。楽しいことを思いついたときに「うおーっ、やってみたいぞーっ」と滾って(たぎって)くる感じの、その肌感を経験的に持っているかどうか。

「やりたいこと」はそんな大層なもんじゃない。「将来ずっと楽しめるか」なんて気にしなくていい。大事なのは「いま」楽しいかどうか。没頭しているかどうかだ。そして、自分が没頭しているのかどうかに自覚的でいることだ。

もし没頭していなかったら取り組みの対象や角度を変えてみればいい。たまには休みながら気分で色々試してみればいい。そういうスタンスでいればそうそう悩むことはない。

自分より大きなものを規定する

「やりたいこと」がマイブーム的である一方で、「おれはこういうのがやっていきたいんだ!」みたいな、なにか一貫した方針が欲しくなる気持ちには共感する。「自分っぽさ」みたいなものはあってほしいし、というよりなんかある気がする。

その「一貫した方針」を言語化する手段が2つある。

まず、マイブーム履歴をずらーっと並べてみて傾向を観察すること。「その一瞬一瞬はただ没頭していただけだけど、振り返ってみるとこういう法則があった!」みたいな感じで言葉にすることができる。

例えば私は「知的な面白さや美しさ」に惹かれる傾向がある。生物の成り立ちを調べるとピタゴラスイッチみたいになっていて面白い。「なんでこの店潰れないんだ?」の裏側の仕掛けを理解するのはexcitingだ。ショウペンハウエルの気高い哲学も、透視図法で描かれた建物も、しばらく眺めていたい感じがする。

こうやって「自分は知的な面白さに惹かれるんだなあ」と言語化できたのは大学4年になってからだ。そこからは、自分が何をすると決めるときでも「知的に面白いならなんでもいいわ」と気楽に考えられるようになった。逆に、知的に面白くないことをしようとしていたら、「自分はいま歪んでいるのでは?」疑うことができるようにもなった。

もう1つの手立ては、自分より大きなものを規定することだ。これは説明が難しいのだけれど、自分を包摂する何かを決めれば「半自動的に自分が決まる」ことがある。

例えば神さま。まず神さまの思し召しがあって、そこから自分の行動が決まる。「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」と神さまがおっしゃるなら、それが自分の方針となり、自分の振る舞いが決まる。要するに、道徳法則・行動原則が決まるとやること半自動的に決まってくる。だから「やりたいこと」にも一貫性をもたせられる。

私の場合は「社会」を意識している。例えば「みんながのびのびと凸凹を作って、それらがうまく噛み合う社会が素敵!」と信じている。でも現実に生きていると、「やりたいこと」をさておいて「食っていけるもの」「儲かりやすいもの」に執着しているシーンに直面する。どうしてだろう?と疑問に思う。「あ、みんないざとなったら自分の身を助けるのは自分しかないと思っているからか…」と気がつく。だから「困ったときにお互いが助け合える社会にしたい!困ったら誰かが助けてくれると思える社会にしたい!」と思う。そうしてやりたいことが決まっていく。なんでもないLINE、共同体づくり、社会福祉などなど…。

この2つ目の方法には、単純に「一貫した方針を得られる」以上のインパクトがある。自分の視点で自分を決めるのではなく、もう1つ上の視点から決める。だから「決まる」。「志向性は移りゆくものだけど、この自分は揺るがないな」という感覚を得られる。だから、本当に規定すべきなのは「やりたいこと」「なりたい自分」ではなく「自分を規定する自分より大きなもの」なのだと思う。

まあ、「目指す社会が変わったらどうなるの?」とか「そもそも自分より大きなものを決めるほうが難しくね?」という問題はあるのだけれど、そこらへんについてはまだ整理できていないのでまた別の機会に。

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