そもそも感受性が育むものである

ビー玉のような瞳

あれはたしか小学4年生だったころ、クラスの女の子が「飼ってる黒猫の瞳がビー玉みたい」というような詩を書いてなにかのコンクールで入賞した。

こう書いてしまうと、別になんでもない出来事に見えてしまうのだが、当時の自分には衝撃的だった。

まず「黒猫の瞳がビー玉みたい」という表現を大人が評価する世界線があるのだということに驚いた。今の(すれた大人な)自分から見れば、「まあ確かに、小学生にしては少し詩的な表現だよね、ポイントあげる」みたいな気持ちを邪推できるのだけれど、「詩的な表現」が「評価される」というのが当時の自分には未知の世界だった。詩のコンクールはたぶんクラス全員で応募したから自分も詩を書いたはずなのだけれど、「詩的な表現」という発想がまずなかった。

そして何より、それを書いたのが、別に目立つタイプの子じゃないことがショックだった。その子は華奢で、静かで、肌は焼けているけれども運動が特別得意というわけでもなく、賢かったと思うけれども積極的に意見を発表するタイプでもなかった。ぼくはその子が休み時間に何をしているかも知らなかったし、黒猫を飼っていたことも多分知らなかった。その子と隣の席になったことがあって、どうやらライバル視している(=仲の良い)お兄ちゃんがいるらしいということは知っていたけれど、別段その子のことを気に留める機会はなかった。

だからぼくには、その子が賞を取ったその現象が、「死角から”本物”が現れた」という風に見えた。普段は気にも留めてなかった子が、僕の知らない「黒猫の瞳がビー玉みたい」という表現で、知らない大人の世界と通じ合っている。しかもそれは、別に誰に習ったわけでもなく、そしてその子が「狙っていた」わけでもなく、その子に元々備わっている自然な所作として行われたように見えた。そのことがどうしようもなく、その子と自分との「距離」のように感じられて、ドキリとした。

やがて「感受性」という語彙を得て、ぼくはこういう風に整理した。それはその子の「天性の感受性」なのだ。彼女には詩的な繊細さが生まれたときからビルトインされていて、あの詩は自分に書けなくて当然だったのだ。

たぶんこの頃から、「感受性」というものは天の神様から与えられたものであると思うようになった。その考えは、中学、高校とあがって色んな人に出会うに連れ、またテレビやネットで「特別な感受性」を持つ人達を知るに連れ、強まっていった。

感情の多面体

しかし面白がる自分を育むという考え方に気がついてからは、「そもそも感受性そのものが育まれるものである」と考えるようになった。自分の「面白い」という気持ちを拡張していけるように、「嬉しい」「悲しい」といったその他の感情もcultivateしていくことができる。

あの頃の自分と比べて、今の自分はどれほど感受性を育むことができただろうか。最近は他人と協力することが前よりもずっと嬉しいことのように感じられる。むかしは自分の親がどうして子どものためにそこまで自然に自分を犠牲にできるのか、わかるようでわかっていなかったが、今はパートナーを得て体でわかるようになった(と思う)。逆に今は、「ビー玉のような瞳」に、10年以上経ってからもまざまざと思い出せるような気持ちは抱かないかもしれない。猫の瞳を見たら「ビー玉だ」と思うようになったけれど、それは感受性が育まれた結果ではないだろう、笑。

我という 三百六十五面体 ぶんぶん分裂 して飛んでゆけ

という俵万智の歌を読んで、いったい自分がどんな多面体なのかを想像する。どう出っ張っていて、どう凹んでいるのか。その多面体の「面」は、まさに自分の「感情の輪郭」ではないか、と思う。自分という立体は、自分が感じることのできる感情の領域を占めている。

あの人はどうだろう。「家族」に関する感情が出っ張っていて、「恋人」に関する感情が凹んでいるかもしれない。「自分」に関する感情が出っ張っていて、「他人」に関する感情が凹んでいるかもしれない。「キラキラ」に関する感情が出っ張っていて、「淡々」に関する感情が凹んでいるかもしれない。その形がどれほど複雑で、そしてかえってシンプルであるかということに、たじろぎ、感心する。

別に出っ張っているから偉いわけじゃない。凹んでいるからダメなわけじゃない。ただ、自分の感情のカタチを眺めて、人生を通してどういう風に作っていきたいかを考えることには価値がある。「ぶんぶん分裂 して飛んでゆけ」ほど軽快でエネルギッシュな思いを僕は持っていないけれど、「じわじわ育てて いけたらいいな」くらいには思っている。

Please Share

この投稿が参考になったらぜひシェアしてください。 あなたの感想がBoctozの力になります😊