面白がる自分を育む

「面白い」は自分次第

『思考の整理学』という本をよく再読する。高校生くらいから読んでいるお気に入りの本だ。

この本は短編集なのだが、再読するたびに発見がある。前は面白くなかった編や、好きな編の中でも気に留めていなかった箇所が、不思議と面白く感じることがよくあるのだ。

本の内容自体はいつも変わらないので、自分の側が変わっているに違いない。以前は興味を持てなかった箇所を面白いと思うようになっている。タイミングによって同じ本への感じ方が変わる。

よく考えるとこれは「面白さ」一般について言えることだな、と思う。「〇〇が面白い、面白くない」という言い方をするけれど、正確には「今の自分はこれを面白いと思う、面白いと思わない」であるな、と。

つまり、自分が何かを面白いと思うかどうかは「対象(その何か)」の問題ではなく、「対象と自分の関係性」の問題である。さっきの話でいうと、以前まで面白いと思えなかった文章が面白くなかったのは「対象:その文章」の問題ではなく、「その文章とそのときの自分の関係性」の問題ということになる。

更に踏み込めば、対象の側が変わらないならば、「それが面白くない」のは完全に「自分の側の問題」と言えそうだ。

言い換えればつまり、自分が何かを面白いと思うかどうかは、「それが面白いかどうか」という問題ではなく、「自分がそれを面白がることができるかどうか」という問題なのではないか。

「面白がる」は技術である

エーリッヒ・フロムという人が著書『愛するということ』で、「愛することは対象の問題ではなく技術の問題である」と論じている。

愛には学ぶべきことなど何一つない、という考え方の底にある第二の前提は、愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思いこみである。愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手(中略)を見つけることはむずかしい ― 人びとはそんなふうに考えている。

この引用の「愛する」の部分を「面白がる」に読み替えてみると、先の問題がよく理解できる。

面白がることには学ぶべきことなど何一つない、という考え方の底にある第二の前提は、面白がることの問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思いこみである。面白がることは簡単だが、面白がるにふさわしい相手(中略)を見つけることはむずかしい ― 人びとはそんなふうに考えている。

「この動画は面白い」「この講義つまんない」というように、私たちは面白さを「対象の属性」として捉えがちだ。それはある種の他責的なあり方で、つまるところ「面白いものが降ってくるのを待っている」ことになる。自分が面白いものに出会えないのは、天の神様が決めためぐり合わせの問題ということになる。

「この講義が面白くないのは、私の面白がる力が不足しているからである」と考えてみる。力をつければ目の前の講義が面白くなる、ということになる。「講義が面白いかどうか」について、急に自分の責任と裁量が入り込んできて、天の神様の思し召しを待つ必要がなくなる。

面白がる力の磨き方

では、どうやったら面白がる力を磨けるのか、という話になる。

自分は一度、「1ミリも面白そうに思えなかったものが、途端に面白そうに見えるようになる」という経験をしたことがある。

Web a11yという概念がある。うぇぶ あくせしびりてぃ、と読む。Webのアクセシビリティ、つまり「Webページをより多くの人にとって使いやすくすること」という意味の概念だ。

自分はITエンジニアで、よくWebページを作っていて、あるときWeb a11yという概念に出会った。Web a11yに配慮できなければ一流のエンジニアではないらしい。

Web a11yを知った自分は「うーん、なるほど、たしかにそうかも」とは思いつつ、「目が見えない人でも使いやすくする」とか、「キーボードだけでサイトを操作できるように作る」とか、一体どれくらいのインパクトがあるんだろう、という疑問があった。あけすけに言えば「そんなに重要じゃなさそう」と思っていた。それにa11y対応は面倒くさそうな印象があって、最初は全く興味を持てなかった。てかa11yて読めないし。

しばらくたったある時、今度は「プログラムのテスト」について学んでいた。

プログラムを書く人は、そのプログラムが期待通りに動いているかどうかテストするためのプログラムも書く。例えば足し算をする add() 関数を作ったときに、 add(1, 2)3 に等しくなるかどうかをテストする。「負の数を足したときはどうかな?少数を足したときはどうかな?…」と、色んなパターンでテストする。そうして、作ったプログラムに対して自信を高めていく。

自分はWebアプリの見た目の方、フロントエンドを主に担当するエンジニアなので、フロントエンドのテストを中心に学んでいた。するとその中で、「a11y対応をすることで同時にテスト設計を改善することができる」という知見に出会った。

a11y対応では、スクリーンリーダーなどで読み上げやすいように、Webサイトのパーツに役割をふったり名前をつけたりすることがある。イメージで言うと、「机」じゃなくて「勉強机」と役割を明示したり、「筆記具」に「相棒シャーペン」という名前をつけたりする感じ。

こうすると同時にテストの書き方が改善できる。イメージで言うと、「この筆記具で書いた文字があの机の上の右から2番目の消しゴムで消すことができる」というテストを書いていたところを、「相棒シャーペンで書いた文字が勉強机の上のお気に入りの消しゴムで消すことができる」というふうに書き直すことができる。

イメージだから少しわかりにくいけれど、具体的に意味づけされている後者のほうが映像が湧いてくる。実際のプログラムのテストでいうと、「ユーザーの行動をよりうまく表現したテスト」になる。「このエリアの右から2番目のリンクが云々」でテストするよりも「ヘッダーのナビゲーションのAboutのリンクが云々」でテストする方が、ユーザーの実際の行動の再現に近い。ユーザーの行動のテストがパスするなら、「これならユーザーにも安心して使ってもらえる」という自信につながる。

専門的なのでこの話がちゃんと伝わるのは同業者しかいないだろうけれど、自分にとってはこの話は最高に面白くて、「おおーーっ!!すげーーーーっっ!!」という感じだった。目からウロコが落ちた。その瞬間、途端にa11yが面白そうに見えてきた。

つまり、自分にとっては「フロントエンドのテストに関する理解」がWeb a11yを面白がるための技術だった。テストについて理解したことで、a11yを面白がることができた。

「興味の架け橋がかかった」という感じだった。もともと「フロントエンド」に対する興味が十分にあって、a11yはその範囲外だったけれど、「フロントエンドのテスト」がa11yへの架け橋をかけてくれた。だから興味を持つことができた。

実際にWeb a11yを学んでみると、障害のある人だけでなくすべての人にとってWebを使いやすくするための概念であることがわかり、また対応の面倒くささにも一定対処する方法があることがわかり、俄然興味が湧いた。a11yについて知ることで、a11yの深い部分まで面白がることができるようになった。

思うに、面白がる力を磨く方法とは、土台となる知識を身につけることなのだ。Xの周辺情報を手に入れることで、Xを面白がれるようになる可能性がある。むしろそれが、いま面白いと思えてないことを面白がるための唯一の方法なのではないだろうか。

毎日を面白がるために

こう考えると、面白がる自分を育むのは自分の知識や経験にほかならない。例えば、宇宙の話は物理法則について理解を深めてからの方がきっと面白いし、子育ての話を何よりも面白そうに見せるのは「自身の子育ての経験」に違いない。

何か新しい/難しい概念を学んだときに、それを面白いと思えなくても落ち込む必要はない。それは技術の問題で、努力の積み重ねによって対処できるからだ。今日は面白いと思えなかったことも、足りないピースが得られればきっと面白いと思えるようになる。

そうだ。「面白がる」は希望に満ちている。「面白いと思えるまで待つしかない」というスタンスに甘んじれば、「面白くない」と対峙しているときの人生は「退屈」にしか感じられない。しかし「自分で面白がる」と決めた途端、そこには一切の退屈がなく、純粋に面白がっている時間か、「なんとかして面白がってやるんだ」という熱量に満ちた時間が待っている。

これから出会う未知の概念を面白がるために今できる最善の行動は、いま自分が面白いと思えるものについてとことん理解を深めることだ。そうすれば少なくとも今は楽しいし、学んだ知識がいつか思わぬ場面で未知への架け橋になってくれるかもしれない。

できるなら、人生で出会うどんなことも面白がれる人間でありたい。毎日を面白がるために、自分は今日も勉強を続けようと思う。

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