「呼びかけに応えなければいけないという感覚」を持っているか

自分にベクトルが向いているうちはダメ

「自分にベクトルが向いているうちはダメ」という言葉がある。DeNAの南場さんのものらしい。他人の言葉をそっくりそのまま同じ意味で使うのは少し気が引けるが、あまりにしっくり来るのでよく使ってしまっている。

就活をしていたときなんかは、まさに「自分にベクトルが向いている、向きっぱなしである」な状態で、自分しょうもなかったなあと思う。「どうすれば自分の将来が成功するか」ばかり考えていた。「◯年後にこういう働きをしていて〜」みたいなキャリアプラン(笑)を立ててみたり、子どもが生まれるまでの貯蓄の計算をしてみたり。

こういうことばっかり考えている人間に面白いことができるわけがない。でもどうしたって「就活」という構造の中にいたら自分にベクトルが向いてしまうわけで、せめて「しょうもない自分」を俯瞰できていたら良かったな、と思う。

コトに向かうこと、使命感

「自分にベクトルが向く」の反対は、「コトに向かう」らしい。正確には、「自分以外も含めた「ヒト」に向かいすぎずに(=承認欲求に囚われすぎずに)」という思いがこの言葉に込められている。

人とか、それから自分に向いすぎずに、仕事に向かう。コトに向かう。コトを成すことに精一杯取り組む。そうするといろいろなものがついてくるのかな、と感じたりします。

DeNA南場智子さんの講演「ことに向かう力」がいい話だった」より

「没頭せよ。ほかの余計なことを考えるな。」そんな風に聞こえてくる。強く響いている。

しかし、反対の岸からも負けじと声を張る者が居る。「ええ、そのとおりです、わかってますよ。でもね、向かいたいコトが、やりたいことが無いんです。

その様子を見ていた川喜田二郎が、家に帰ってエッセイを書く。

絶対的受け身とは全体の状況が自分に要求するから立ち上がるというもので、この方が実は主体性が高い。主体性については、よく人に強いられてやるのは主体的ではないといわれるがそれは一般論であって、本当は全体状況が自分にやれと迫るから、やらざるを得ないという方が、じつは真に主体的だ。

自分がやりたいからやるんだという方がいかにも格好いいように見えるけれども、その方が実は精神的に消耗が大きい。無理に自分を燃え立たせているという、何か不自然さがある。ところが全体状況でやらざるをえないとなってくると、強いられていると言えば強いられているとも受け取れるけれど、何か気が楽なのである。つまり自分と状況が一致しているということで、状況の外に自分がいて、外から状況をみているということではなく、自分の内側にも状況を持っているということでその状況の中から自分の主体性が導き出されてくるので、むしろ作為性が少ない。

川喜田二郎『創造性とは何か』

「コトに向かう」というのは、「自らの精神力で辛抱強く向き合っている」というよりは、むしろ「引力があって、向かわされている」という感覚に近い。「使命感」という表現がしっくり来る。

天職は英語で”calling”、「誰かが自分を呼んでいる」と言うらしいが、その裏側には、”responsibility”、「呼びかけに応えなければいけないという感覚」を抱く自分がいる。それをKJは「全体状況が自分にやれと迫る」と表現した。

学生のときに所属していたまちづくりの団体で一番の活動家だった女性は、「このまちに必要なんですよ」といつも言っていた。

「地域のことを伝える情報誌がこのまちに必要なんですよ」「学校についていけない子どもたちのお手伝いをする場所がこのまちに必要なんですよ」「学生がのびのびと活動できる場所がこのまちに必要なんですよ」そんな調子で、誰から直接頼まれたというわけでもなく、彼女は次々に活動を起こし、継続していた。その様子はまさに「使命感」と言うほかなかった。

「そんなご立派な使命、感じたことないですよ」と思ってしまうかもしれない。しかし、使命感というのは別に大層なものだけじゃない。「その日のシフトに入れるのが自分しかいなさそうだったから入る」とか「友だちを家に招くことになったからちょっとだけ料理を頑張る」とか。「なんとなくそうしないといけない気がしたからそうした」という小さな使命感を、きっと誰もが感じたことがあるだろう。

そうした小さな使命のために色々手を動かしていった先で、ようやく自分を納得させるような呼びかけと出会える。それはまさしく「全体状況」を広く鋭く見ることができるようになるからだ。

例えばぼくは大学で教育についていくらか学んだから、「親のあり方を学べる場所を作る」「親の役割を補完できるような地域性をつくる」「子どもが宿題をやっている隣で勉強するパパになる」というようなコトにひかれている。「今すぐ直接バリバリ取り組んでます」って感じではないのだけれど、不思議と日々の自分の活動が、例えばこの文章を書くことでさえも、遠巻きにこれらのコトに繋がっているのを感じている。「自分がやるべきと思えることをやる」という点で通底しているからかもしれない。誰かに呼ばれていると思えるのだ。

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