顔つきはどのようにして磨かれるのか

面構えが違う奴ら

先日、漫画『進撃の巨人』を読み返していて気になるセリフを見つけた。

おそらく2年前の地獄を見てきた者たちだ 面構えが違う

tsuragamae

(画像引用:諫山創『進撃の巨人』4巻第15話, 講談社)

「顔かたちは変わらなくても顔つきは変わる」と言われる。内面は内側から溢れ出てその人の印象に影響を与える。

できれば私も引き締まった顔つきでありたい。ではどうしたらいいのだろうか。

『進撃の巨人』の主人公らは、過去に一度「巨人が自分の街を攻めてくる」という絶望を経験した。家が壊され、親が食われるところを目の前で見ていた彼らは、巨人を知らない周りの兵士たちとは違う「覚悟のある」顔つきをしていた。

つまり彼らの顔つきは絶望を乗り越えたことで磨かれたと言える。しかし具体的に、絶望は内面にどう作用するのだろう?

人間性と絶望の関係性についてはキルケゴールという人がつぶさに書き記している。彼は基本的に弁証法の構図を使って人間を説明する。

弁証法を簡単に説明すると、

  • まずテーゼと呼ばれるなにか1つのあり方があって
  • そこにテーゼを否定するアンチテーゼというあり方が出てきて
  • テーゼとアンチテーゼをうまいこと綜合することで前に進む

というあり方のこと。

『進撃の巨人』で言えば、まず主人公らは「巨人と戦いながら生きていく」というテーゼを持っていたが、巨人の襲撃を経て「こんなのに勝てるわけがない、私たちはすぐに死ぬ」というアンチテーゼに直面した。

生きていきたいけど、生きていける気がしない。このような乖離状態のことをキルケゴールは絶望と呼ぶ。

しかし、主人公らは絶望を経て「生きて戦う」という選択肢を取る。「巨人は強いし怖いけど、それでも自分は生きて戦う」というかたちでテーゼとアンチテーゼを綜合し、前に進む。

この「前進」が兵団加入時の主人公らの顔つきに現れた。一段綜合できている分、他の奴らとは「面構えが違う」というわけだ。

自己否定と向き合うことができるか

というわけで、顔つきを磨くには「自己否定(アンチテーゼ)と向き合うこと」が大切だということがわかる。それもただ自己否定するだけではない。自己肯定を保ちながら自己否定する。否定の目線を肯定している自己に「取り込む」という感じ。

自分のことをすごいデキるやつだと思っていたけれど、自分よりもっとデキるやつに出会ったとき。自分の考えが正しいと思っていたけれど、学問をする中でそれが1つのパターンに過ぎないとわかったとき。自分はこのままでいいと思っていたけれど、どうにもこうにも上手くいかないことがでてきたとき。

そんなとき、卑屈になること無く、目を逸らすこともなく、「ああ、昔の自分はバカだった」とあっけらかんとして前進できるか。それまでの自分を土台として少し角度を変えることができるかどうか。

「自分ってクソだなあ」と否定しっぱなしでも、「いやでも、とはいえ…」と逃げっぱなしでもいけない。いまの自分を否定するものにしかと向き合って、正しく傷つくことで、いわば「超回復」というかたちで前に進むことができる。

顔つきで言えば、自己肯定100%だとまぬけヅラになる。自己否定100%だと陰鬱とする。

その中庸にこそ、より良い自分を見つめる精悍な顔つきがある。

しっかりと向き合ったあとで、結果的に「自己否定以前」と同じ選択肢を取ることになったとしても、それは自己否定の足跡が刻まれた新しいあり方でなくてはならない。巨人を見る前の「生きて戦う」と見たあとの「生きて戦う」は同じようで違う。

「いまの自分は十分に最高な存在で、しかしもっと良くなる可能性を秘めている。」

その矛盾の落とし所こそがその人の顔つきであり、生き様なのだと思う。

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