学ぶほどシンプルになれるか

本来無一物

最近、毎日の行動を「(自分から見て)足し算」か「引き算」のどちらかに分類する、ということをやっている。

わかりやすいところでいうと、食事は自分の中にものを入れるから足し算、排泄はその逆だから引き算。何かを見たり読んだりすることは足し算で、頭の中のものを外に出すのは引き算。ゴミ出しとか掃除も引き算。買い物は足し算?料理は引き算かな?運動は、うーん、引き算。…というように。

きっかけは、野矢茂樹という人の本で、「本来無一物」という考え方を知ったことだった。

ところが裸の考え方では、わたしたちは本来完全なのだ。なにかが足りないからつらいのではなく、よけいなものをしょいこんでしまっているから、しんどいのである。

ー野矢茂樹『哲学な日々』より

0の状態が最も良いならば、自分がどれほど余計なものをしょいこんでいるのか知りたくなったのである。

やってみると、本当に足し算が多い。まず「見る」とか「聞く」という行為が足し算なので、ベースとして足されていくものが多い。「視覚神経が多いので目をつぶると脳みその負担が6割くらい軽くなる」というような話を聞いたことがあるのもあって、隙あらば目をつぶるようにしている。ただ、そんな隙はなかなかない。

仕事をしようと思うと文字を読まないといけない。油断していると書くよりも読む方が圧倒的に多い。足し算・引き算を意識すると、「読まなくていいものを読んでいる」ということがわかってくる。でも、脳みそが読むときの「弱い刺激」に飢えているので、じっと目をつぶっていると何かどうでもいいものを読みたくなってくる。怖い。

学ぶことは足し算か

食べることによる足し算は、排泄とか運動の引き算で釣り合いが取れているつもりだ。そうでなければ体重が増えるはず。

だから、見るとか聞くの分の足し算をどう引き算していくのかがメインの問題になる。全部忘却すればOK?でも、蓄積されるものは確かにある。というか、直感的には「蓄積されてなきゃ困る」と思う。足し算は悪なのか?学びは足し算なのか?

ふと、「高校を卒業したくらいの頃と比べると、どれくらいの要素が自分に足されたのだろうか」と考えてみる。めちゃくちゃ足されている。ひとつひとつ言葉にしていくのもばからしいくらい、たくさん。

しかし、たくさん足し算された自分自身は、かえってシンプルになっている気もする。

あのときは雑念が多かったけど、いまは考えていることが限られた原理原則に収斂していくような。文章を推敲すればするほど短くなっていく感じと似ているかもしれない。

「知識は増える一方だけど、知識を吸収する自分自身はシンプルになる一方である」という感覚があれば、たぶんそれは筋が良いのだろう。まだうまく説明できないけれど。

というわけで、「この足し算をして、自分が洗練されるだろうか?」という問いをワンクッション挟んでから、日々の足し算に甘んじている。

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