人生は毎日が清書

1枚目を清書として出せ

私の中学の書道の先生はヘンクツジジイと呼ばれていました。たしか書道の時間のためだけに呼ばれている外部講師で、白髪で物腰の柔らかそうな見た目のおじいちゃんでした。

なんでヘンクツと呼ばれていたかというと、授業のときに話が長いからでした。書道の時間なんだから字を書かせておけばいいのに、彼は授業時間の半分くらいは書道に関係あるのか無いのかわからないことを話していました。しかも彼はよく同じ話をしていて、例えば「薄墨はいいぞ。筆の動きがよくわかるから。」というのは彼の定番ネタでした。そんなの中学生(特に男子)にとってつまらない話に決まっているので、生徒は半分当てつけでヘンクツ呼ばわりしていました。

また彼の人気をより一層下げていたのは、彼のトークスタイルでした。彼はトークの途中で生徒を指名してレスポンスを求めました。つまらない話を長々とする上に対話を求めるだなんて何事かと、中学男子はそういう気持ちでした。

先生はよく一番前の席のKを当てていました。Kは普段から「やかましい男子」のキャラを担っているだけでなく、昔から書道を習っていて得意意識があったこともあって、完全に先生をナメていましたから、生意気な態度をとって先生に噛み付いていました。先生も「なんじゃこいつは」という感じでやんわり制しにかかるのですが、どちらも譲らずという感じで、まあそれは楽しそうにやっていました。最後は先生がスカして終わって、授業後の移動中にKは決まって先生の文句を言うのでした。

授業では、話が長いので当然字を書く時間が短くなるのですが、それも先生の考えの内であるようでした。彼はよく「へたくそだからって何枚も書くな。結局、1枚目が一番いい字を書けるんだ。」と話していて、書くのは1枚で終わらせるよう生徒に求めました。「下書きのつもりでやって、いい字が書けるわけがないんだ」と、何度も書き直しをしている生徒に注意すらしていました。

私は字が下手で、書道で満足する出来の作品を書けたことがありません。意識が高いとかではなくてふつうに下手でした。ですから「1枚目を清書として出せ」というのは、まだ変にプライドの高かった中学生の私にとって簡単な話ではありませんでした。1枚目は大抵気に入らない出来だからです。「今のは下書きのつもりだったから」と、先生の目を盗んで何枚も書き直しをしていました。結局、1枚目の作品と出来はそんなに変わらないのですけれど。

姿勢良くやる

そんな書道の授業も1年で終わり。中学3年になるころにはヘンクツジジイのことなんかすっかり忘れて、私たちは受験勉強に勤しんでいました。

Kと私は3年間同じクラスで、勉強ではライバルのような関係にありました。おおっぴらに点数を競うようなことはしませんでしたが、まあこいつには負けたくねえなとお互いに思っている、そんな間柄でした。

ただ私はくすぶっていました。私もKも成績は良い方だったのですが、点数はいつもうっすら私がKに負けていたと思います。私の方がいつもイマイチな点を取っていたんです。不服でした。「自分はもうちょっといい点数を獲っても良いんじゃないか」と(傲慢にも)感じていました。先生にも「なかがわ、お前思ったよりもテストの点数は獲れんイメージあるなあ。授業の感じやともうちょいわかってそうやけど。」と言われたことがあります。そんなの何の根拠もないし、獲った点数がいつも正なんですけどね。

とにかく、Kも自分も実力は変わらない、いや俺のほうがちょっと上なくらいはずなんだが、なんか自分はくすぶっててイマイチだと、そういう風に思って過ごしていました。


そしてこの「くすぶり」を打破するきっかけをくれたのは、他の誰でもないKでした。


私はそのとき塾で模試を受けていました。受験本番のようなテストを受けるあれです。それは受験前に受ける最後の模試でした。

私はそれまでにも何度か塾での模試を受けていましたが、やはり点数はくすぶっていました。全体で見れば悪くない方であるものの、なにかこう、頭一つ抜けない感じがする。ただそのことに真剣に向き合うことはせず、友達と「しんどいよなー模試」とか言ってやり過ごしていました。

実際私は、「しんどい、めんどうだ」と思ってそれまでの模試を受けていました。模試は1日で5教科もテストをこなし、その成績がでかでかと張り出される、緊張感のあるイベントである反面、「受験の下書き」のようなもので、失敗しても大事には至りませんから。

ただ、そのときばかりは違いました。いつもなら背中を丸めていただろうところを、しゃんとした姿勢で机に向かっていました。それは最後だからと言うわけではなく、前日に聞いたKの言葉のせいでした。

私は前日、Kに愚痴を漏らしていたんです。「明日塾の模試なんだよね、だりー」とかなんとか。テストがだりーのは中学生男子のお作法です。少なくとも私はいつもそうでしたし、他のみんなも大概そうでした。ほとんど定型文のつもりで話していました。しかし、奴の返事は違いました。


「だりーと思って受けたテストは結果もそんな感じになる。テストはやってやるぞと思って受けなきゃダメだぞ。」


悔しいですが、妙な納得感がありました。いや、自分でもとっくに気づいていたのかもしれません。「だりー」というテイでテストを受けるのは、イマイチな点を獲った時の予防線なのだと。「まあ、やる気なかったしな」と思い込むためのガードなのだと。私はいつもほとんど無意識のうちに、点数が低かった時の自分を守ろうとしていて、その緩みのために実際にいい点数を獲ることができなかった。きっとそうだったのです。

最後の模試は、私はただ「ちゃんとやるぞ」と思って受けていました。「だりー」とも、「いい点数を獲るぞ」とも思っていませんでした。「姿勢良くやろう」と、ただそれだけを考えていました。

結果は、ぶっちぎりでした。過去の自分と比べても、その模試のランキングで見ても。

あまりに衝撃が大きくて、塾の廊下に大きく張り出された成績を小一時間ボーッと眺めて、塾の先生に「あんたそんなに嬉しいんか」と笑われたくらいです。たしかに嬉しかったけど、それよりも「今までちゃんとやってなかったんだな、自分」という反省が勝っていました。「ほれ、言ったげ」と、キツい訛りでドヤるKの顔が浮かびました。

人生は毎日が清書

あれからしばらく時間が経って、私も幾らかおとなになりました。それでようやく気づいたのは、「人生は毎日が清書だ」ということです。やり直しが効かないということです。

多くの人は、そんなつもりで日々を過ごしていないでしょう。テストのような身を引き締めるイベントはそうそうありませんし、ふつうに生きていたら「将来のいつかの日の下書き」のような日が続きます。例えば日本の多くの人は、大学生活を「社会人生活の下書き」として過ごしますね。残念ながら私もそうでした。

まあそれも悪くないと思います。しかし、下書きのつもりでやっていい字が書けるわけがない。ヘンクツジジイの言っていたことは真理でした。自分が今まで出会ってきて尊敬できると思った人は、みんな何事にもベストを尽くしていました。ベストを尽くす習慣を持っていました。

たとえ清書のつもりでやったとしても、上手な作品を出せることはそうそうありません。でもへたっぴなまま出すしかない。へたっぴになるとわかっていても姿勢良くやりとげるしかない。そのくらいしか自分にできることはない。きっとそういうもんなのです。

自分はまだまだ「ベストを尽くす習慣がある」というにはほど遠いですが、これから5年、いや10年かかってもそういう習慣を手に入れていくつもりです。もし中学生の頃の自分がいたら読ませてやりたいなと思って、文章にしてみました。

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