広さと深さは表裏一体

広さと深さ

中学からの友人Kが、ある日言った。

「はじめとおれに決定的な違いがあるとすれば、はじめは広さでおれは深さだと思うんだよね」

なんとなくわかる。まるい人と尖った人がいるとしたら、自分はまるい人だなと思ってきた。ありていな言葉を使えば、スペシャリストじゃなくてジェネラリストだな、みたいな。

引用元: https://kaz-ataka.hatenablog.com/entry/2020/09/07/200050

そしてなんとなく、尖った人たちに妙な劣等感、というか羨望を抱いてきた。たぶんまるい人たちは大体そうだと思うし、逆もまた然りなんだろう。

ただ最近は、「広さと深さは表裏一体である」と感じることが多くなった。ある程度の深みを出すためには広さが必要になってくるし、ただ広く駆け回っているつもりでいつのまにか奥の方にたどり着いていることがある。

例えば以前、「人体をうまく描けるようになりたい!」と思って解剖学の勉強を始めた。人体の構造についてふむふむなんとなく掴めてきた頃に、その特徴を平面に落とし込むために建築デッサンをかじったときに学んだ透視図法の知見が活用できることがわかった。お、これはラッキー。いやしかし、遠近法だったり表情の読み取りだったり、人間の認知っていうのは一体どうなっているんだ?と、今度は認知科学について調べだす。

最終的に、「頭部・胸部・腰部を背骨で連結し、そこに手足4本をつけるだけ」という描き方で、頭部と線だけの棒人間を遥かに上回る表現力が出せることがわかった。肩幅と腰幅の関係や関節の使い方の微妙な違いで性別を表現できたり、全く同じ人体の構図でも背景の絵柄や効果線(つまりコンテキスト)によって認知のされ方が全然違ったりすることも理解した。

もともとは「人体透視図」みたいなのが描けるようになりたかったので着地点はだいぶ違うのだけれど、自分的には一定の深みにたどり着いた気がして満足した。

解剖学・建築デッサン・認知科学といろいろな分野を経由してここにきた。「掘削していくと硬い岩にぶつかり、迂回を繰り返していたらいつのまにか奥の方まで掘り進んでいた」というような感覚。

医者の卵であるKも、「XX学を理解するためにYY学が必要で、YY学を学んでいったらいつのまにかZZ学が必要になって…」と、具体的な学問の名前は忘れてしまったが、要するに「人体を深く知るのにはいろんな学問を修める必要がある」というような事を言っていた。

思うにこれは、一定の境地にたどり着くために「広さドリブン」でいくのか「深さドリブン」でいくのかというスタイルの違いがある、ということなのではないか。

スタイルの違い

自分が決定的に「深さドリブン」ではないなと思うのが、なんでもかんでもすぐ抽象化してしまうところだ。

例えば本を一冊読んだときに、「この話とあの話とあの話がこうつながって、こうこうこういう展開になって、最終的にはこういう主張になる」みたいな仔細な整理をするのが苦手で、「ああ、あの本はざっくりこういうことを言ってたよね」とすぐ丸めてしまう癖がある。具体的な名称や制度的知識がすぐ抜けてしまう。

逆に、抽象度の高いレイヤーでぜんぜん違う話同士をくっつけるのが得意だ。「”その話って、あの話と同じだよね”ってよく言うよね」ってよく言われる。

こういった思考スタイルの違いは、たぶん遺伝的に大きく決定されているのではないかと思う。一時期は習慣の違いだと思って、具体の話を丁寧に憶える努力をしてみたことがあるが、どうしてもまた「ここ」に戻ってくる。

広さドリブンと深さドリブンで学習法も異なるだろう。自分は「一冊の本をじっくり読むのが正義!」と思っていたけれど、勉強していて脳内最大瞬間風速が吹き荒れるのはいろんなネット記事を横断的に読み漁っているときだったりする。スタイルとライフサイクルに合わせてバランス良く摂取すれば良い。

また、一直線に深く掘り進める人はいち早くprofessionalismを獲得するのに向いていて、迂回しまくる人は一定の境地に達するまでに時間がかかるのだと思う。そのうち体力が尽きて中途半端なところで漂ってしまうと「器用貧乏」という卑下につながる。

一方で、広さドリブンでprofessionalismを獲得した人は専門分野の移住がしやすいという強みがある。変化が多い時代にはこちらの方が生きやすいのかもしれない。ここらへんは、「幅優先探索と深さ優先探索の2つのアルゴリズムがあって、どちらが有利に働くかは時と場合による」としか言えない。

手を取り合って

個人的な経験則として、「すげーやつはぜんぶすげー」というのがある。例えばイーロン・マスクは世界一の車会社をやっていて、決済もロケットもソフトウェアもAIも世界レベルでやってる、みたいな。一芸に秀でるものは多芸に通づる。

高い建物を建てるにはそれなりの横幅が要るし、似たような高さの建物を作るのには慣れが寄与する部分がある、ということだろうと思っている。

ただ、ひとりでスーパーマンになる必要はない。神経多様性に従ってそれぞれ得意なことをすれば良い。迂回がうまいやつと、力強い掘削がうまいやつと、お互いに補い合って、まだ見ぬ境地を探しに行きたい。

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